市内西長洲・八幡公園内に平和塔があります。碑には「太平洋戦争末期、昭和二十年六月一日午前十時尼崎市西長洲地区空爆死没者三百余柱御霊を始め大東亜戦争に於いて戦死された御霊を西長洲の里の平和の守護として建立 昭和三十七年八月十五日西長洲六人会」と刻まれています。
総務省の一般戦災ホームページ・尼崎市における戦災の状況では「大阪に隣接する工業都市尼崎には、戦前すでに鉄鋼や電力など基幹的な工業施設が集積しており、軍需生産上も重要な位置を占めていた。このため米軍は、尼崎を爆撃目標都市として位置付けたが、阪神工業地帯において大阪と一体をなすという立地から、市街地焼夷弾空襲においては目標を大阪-尼崎市街地域として設定した。
この結果、昭和20(1945)年3月から6月にかけて実施される、B29爆撃機部隊による一連の大都市焼夷弾空襲作戦のなかで、尼崎は大阪に付随する目標市街地として、4回にわたって爆撃された。このほか、武庫川河口の石油関連施設を目標とした精密爆撃の実施や、隣接する西宮~御影市街地域を対象とした焼夷弾空襲の余波など、B29爆撃機による空襲は計8回にのぼった。このうち、もっとも大きな被害をもたらしたのは、6月1日と6月15日の空襲であった。6月1日は第2回の大阪大空襲にあたっており、大阪西部を目標とした空襲が、隣接する尼崎市南東部にも及んだのであった」と記されています。
(空襲体験者の回想より)
「六月十五日、尼崎方面の大空襲、午前中だったと記憶しますが、空襲警報発令とすぐ表へ出たとたん、焼夷弾が目の前の地面に突き刺さり、びっくりして後ずさりして助かりましたが、声も出ないこわさでした。当時、私は国道二号線近くに住んでいましたが、近所の方とご一緒に人家の少ないJR尼崎駅(昔は国鉄神崎駅)の方へと逃げましたが、現在の合志病院あたりであちらこちら焼夷弾が民家に落とされ、またたく間に、空一面夜のごとく真っ暗になってきました。
敵機はすごい音を立てて低空飛行にて人の姿を見ると、奇襲攻撃されると聞いていたので、音が聞こえなくなると、ひたすら走り続け北へ北へ、音の聞こえる時はうずくまっては入れるどぶ板の中に隠れました。ともかく田んぼの方へと逃げましたが、下坂部方面まで逃げました。
ようやくおさまり、やっと実家に帰り着きましたが、家にも焼夷弾が押入に落ち、ちょうど叔父が来て下さっていて火を消して下さったと母は話していましたが、父も会社で空襲にてけがをしてしまいました」
『きょうちくとうの咲く街で-尼崎市民が綴る戦争体験の記録-』(同編集委員会発行、平成7年)掲載、村上常子「尼崎大空襲・六月十五日のこと」より
西長洲の八幡公園にある平和の塔
平和の塔建立の由来
尼崎市内の空襲の状況(総務省一般戦災ホームページより転載)